厚生労働省の社会保障審議会医療保険部会で進められている議論は、日本の医療保険制度の持続可能性を確保するための多角的な改革の方向性を示しています。社会保険労務士として顧問先企業や従業員への助言を行う上で、特に以下の4つの要点を押さえることが不可欠です。
我が国の医療保険制度は、急速な高齢化に伴う医療費の増大、それを支える現役世代の減少、そして医療現場における深刻な人材不足という、深刻かつ構造的な課題に直面しています。この状況下で国民皆保険制度を持続可能なものとするためには、給付と負担のバランスを再考し、制度基盤を強化し、限りある医療資源を効率的に活用する、多角的な改革が急務となっています。
直近の第205回社会保障審議会医療保険部会では、この課題認識のもと、以下の4つの主要テーマが議題として集中的に議論されました。
これら4つのテーマは、それぞれ独立した課題であると同時に、相互に深く関連しています。例えば、薬剤費の自己負担見直しや医療資源の効率化は、医療費全体の伸びを抑制し、保険料負担の増大を緩和することに繋がります。国民健康保険制度の基盤強化は、地域社会のセーフティネットを維持するために不可欠です。そして、医療現場の職場環境改善は、質の高い医療サービスを安定的に提供するための大前提となります。これらはすべて、社会保障制度の持続可能性という共通の目標に向けた、包括的なアプローチの一部です。
これらの改革は、社会保険労務士の業務にも長期的な影響を及ぼします。企業の健康保険組合の財政運営は医療費全体の動向に左右され、従業員の医療費負担やライフプラン設計(特に退職後の国民健康保険への移行)にも直接関わってきます。顧問先企業に対して、制度変更に伴う従業員への影響を的確に説明し、適切な労務管理や福利厚生制度を提案することが、今後ますます重要になると思われます。
医療保険財政の持続可能性確保と、国民の健康維持・増進を図るセルフメディケーションの推進は、現代の医療政策における両輪です。この二つの観点から、市販薬(OTC医薬品)と成分が類似した医療用医薬品(OTC類似薬)の保険給付の在り方を見直す議論が本格化しています。「骨太方針2025」や「自由民主党、公明党、日本維新の会 合意」においても、この改革は明確に位置づけられており、2026年度からの実行を目指す国家的議題となっています。これは、軽度な症状は自己負担で購入できる市販薬で対応してもらうことで、貴重な保険財源を真に医療的必要性の高い治療に重点化する狙いがあります。
最大の焦点は、OTC類似薬の費用負担をどのように見直すかです。議論の方向性として明確になったのは、OTC類似薬を単純に保険給付の対象から外す(保険適用外にする)のではなく、保険診療の枠組みの中に置きつつ、別途の自己負担を求めるという考え方です。
この背景には、安易な受診抑制を避け、医師による適切な診断・医学管理のもとで投薬が行われるという医療機関の受診機会を確保すべきだ、という強い意見があります。部会では、「医療機関の受診は、ただ薬を出すものとは全く違う」との指摘があり、受診そのものの価値が再確認されました。
具体的な仕組みとしては、「保険外併用療養」や「選定療養」といった既存の制度を参考に、通常の自己負担(1〜3割)に加えて、追加の定額負担などを求める案が検討されています。これにより、患者の急激な負担増を避けながら、制度の趣旨を実現するバランスの取れた制度設計が模索されています。
自己負担が増えることで、必要な医療へのアクセスが妨げられてはなりません。そのため、負担増に対する特別な配慮が必要な対象者の範囲をどう設定するかが、極めて重要な論点となっています。
「骨太方針」など政府・与党の文書では、こども、慢性疾患を抱えている方、低所得者への配慮が必要であると明記されています。この方針を受け、部会ではさらに踏み込んだ議論が行われました。特に、患者団体からのヒアリングでは、切実な声が寄せられています。
これらの意見は、一律の制度変更が患者に与える経済的・心理的影響の大きさを浮き彫りにしており、配慮対象の範囲や方法をきめ細かく設計することの難しさを示しています。
どの薬剤を「OTC類似薬」として自己負担見直しの対象とするのか、その範囲を画定することも技術的に難しい課題です。
部会では、「成分が一致していても、用法・用量、効能・効果、対象年齢などが(医療用と市販薬で)異なる」という専門的な意見が示されました。例えば、医療用医薬品は医師の診断に基づき患者一人ひとりの症状に合わせて処方量を細かく調整できますが、市販薬は安全性の観点から用法・用量がより限定的に定められています。単純に「成分が同じだから代替可能」と判断できないケースが多く、機械的な線引きは困難です。このため、OTCで代替可能なものをできるだけ広い範囲で検討しつつも、個々の医薬品の特性を慎重に見極める必要があるとされています。
この薬剤自己負担の見直しは、従業員の医療費や家計に直接影響を与えるだけでなく、国民皆保険制度における「給付と負担」のバランスをどう再定義するかという根源的な問いを投げかけています。社労士としては、従業員の医療費リテラシー向上のための社内セミナーの提案や、健康保険組合と連携したセルフメディケーション推進策(例:市販薬購入費補助)の検討を顧問先に促す好機と捉えるべきでしょう。特に、セルフメディケーションの推進は軽度医療へのアクセスを適正化し、国保のような高齢者・低所得者が多く医療費がかさむ保険制度の財政圧力を直接的に緩和する効果が期待されます。次に、その国保制度自体の構造改革を見ていきましょう。
国民健康保険(国保)は、自営業者や退職者、非正規雇用者など、被用者保険に加入していない国民を支える重要なセーフティネットです。しかし、その制度基盤は構造的な脆弱性を抱えています。データによれば、国保の被保険者は他の医療保険制度に比べて年齢構成が高く(加入者平均年齢54.2歳)、所得水準が低い傾向にあります。これにより、一人当たりの医療費が高い一方で保険料負担能力が低いという構造的な課題を抱えています。加えて、市町村という小規模な保険者が多いため財政運営が不安定になりやすく、さらに人口減少に伴う自治体職員の減少は、事務処理能力の維持をも困難にしています。こうした背景から、平成30年度より運営主体が市町村から都道府県に移管されましたが、制度の持続可能性を確かなものにするため、さらなる運営強化と財政基盤の安定化が不可欠となっています。
現在、以下の主要な改革項目が推進されています。
子育て支援の強化は、社会全体の重要課題です。国保においても、子育て世帯の経済的負担を軽減するため、令和4年4月から未就学児を対象とした均等割保険料の5割軽減措置が導入されています。
今回、この支援策をさらに拡充し、軽減措置の対象を高校生年代まで広げる方針が示されました。これは、全国知事会をはじめとする地方団体からの強い要望を反映したものであり、子供の数が多いほど負担が重くなる国保の仕組み(均等割)の課題に対応するものです。この施策は、子育て世帯の負担感を直接的に和らげ、安心して子供を育てられる環境整備に貢献することが期待されます。
国保制度を将来にわたって安定的に運営するため、財政基盤と事務運営の両面から強化策が講じられます。
市町村国保とは別に、医師や建設業など同種の事業・業務に従事する者で組織されるのが国保組合です。特に建設業などの一人親方や個人事業所を多く抱える顧問先を持つ社労士にとって、その制度変更は重要な関心事となります。
今回、負担能力に応じた負担を推進する観点から、国保組合に対する国庫補助率について見直しが行われます。現行の下限である13%を原則としつつも、①保険料負担率が低い、②積立金が多い、③医療費適正化等の取組が低調、という3つの要件をすべて満たす財政的に余裕のある組合に対しては、例外的に補助率を12%または10%に引き下げる措置が導入されます。また、事業所が法人化した場合などに健康保険の適用を免除される「健康保険適用除外」の手続きについて、従来の承認制から申出制へと簡素化されます。
国保制度の公平性を確保するため、高所得者層に対する保険料の賦課限度額の見直しも重要な論点です。医療費が増加する中で限度額を据え置くと、そのしわ寄せが中間所得層の保険料率引き上げに繋がり、負担が過重になる恐れがあります。そこで、被用者保険の標準報酬月額上限の考え方(上限を超える被保険者割合が1.5%程度)とのバランスを考慮しつつ、高所得者層に応分の負担を求めるため、段階的な引き上げが行われています。
今回、令和8年度に向けて、医療分の賦課限度額を現行の92万円から93万円へ1万円引き上げる(基礎賦課分を66万円から67万円へ引き上げ)案が示されました。これにより、限度額に該当する高所得世帯の割合の急増を抑制しつつ、中間所得層の負担増を緩和する効果が期待されます。
企業の定年延長や継続雇用制度を設計する際、退職後の国保保険料が個人のライフプランに与える影響は無視できません。今回議論された賦課限度額の引き上げは、特に役員クラスの退職後の負担増に繋がるため、iDeCoやNISAといった私的年金制度の活用と合わせた総合的なコンサルティングが求められます。こうした個別の保険制度の改革と並行して、よりマクロな視点から医療提供体制全体の効率化を進めることも、制度の持続可能性を確保する上で欠かせない要素となります。
日本の医療保険制度を持続可能なものとするためには、給付と負担のバランスを見直すだけでなく、医療サービスを提供する体制そのものの生産性を向上させる必要があります。限りある医療資源(人材、設備、財源)を最大限有効に活用し、質の高い医療を持続的に提供するためには、科学的根拠に基づき非効率な医療行為を見直すことと、それを支える医療従事者の労働環境を改善することが、まさに表裏一体の最重要課題です。
この課題認識のもと、医療保険部会では以下の2つのテーマが重点的に議論されました。
医療費の適正化に向けた大きな一歩として、第4期医療費適正化計画(2024~2029年度)において、新たな目標が追加されました。それは、「効果が乏しいというエビデンスがあることが指摘されている医療」の見直しです。これは、これまで必ずしも明確にされてこなかった「低価値医療(Low-Value Care)」に国として本格的に踏み込むことを意味します。
その最初の具体例として挙げられたのが、「腰痛症(神経障害性疼痛を除く)に対するプレガバリン(リリカ錠)処方」です。厚生労働省が国内の診療ガイドラインや医薬品の添付文書などを精査した結果、この処方は「腰痛診療ガイドライン2019」において有効性を示すエビデンスがないとされており、また添付文書上の効能・効果も「神経障害性疼痛」等であって一般的な腰痛は対象外であることから、「効果が乏しい医療」に該当すると判断されました。このように客観的なエビデンスに基づいて具体的な医療行為を特定し、適正化を促すアプローチは、今後の医療費適正化の潮流となる可能性があります。
医療現場の厳しい労働環境は、人材の離職を招き、医療の質を低下させる要因となりかねません。このテーマは、企業の働き方改革を支援する社会保険労務士の専門分野と深く関わるものです。部会では、医療従事者の負担を軽減し、専門性を最大限に発揮できる環境を整備するため、以下の方向性が示されました。
本記事で詳述した各改革テーマは、すべて「日本の社会保障制度の持続可能性を確保する」という共通の目標に向かう、相互連関した施策です。OTC類似薬の見直しや非効率な医療の是正は医療費の伸びを直接抑制し、そこで生じた財源的余裕が国保の子育て支援拡充といった未来への投資を可能にします。社労士の皆様はこれらの変化が顧問先企業やその従業員にどのような影響を及ぼすかを常に注視し、制度の動向を的確に捉えた専門的なアドバイスを提供していくことが求められます。