令和8年4月1日、健康保険の被扶養者認定における年間収入の判定方法が変わります。この変更は、いわゆる「年収の壁」を意識した就業調整を是正し、労働者がその能力を十分に発揮できる環境を整備するという、政府の「就業調整対策」の一環として導入されるものです。
従来の過去の実績や収入の見込み額に基づく判定から、労働契約書という客観的な書類に基づく判定へと移行することは実務に大きな影響を与えます。顧問先企業への説明責任、従業員からの問い合わせ対応、そして具体的な手続きの指導など、正確な知識に基づいた対応が求められます。
今回の制度改正の核心は、被扶養者認定の判断基準を、これまでの不確定な見込みではなく、「労働契約」という客観的な根拠に移行させる点にあります。従来の判定方法は、時間外労働など変動要素を含むため、労働者が「扶養から外れないように」と就業時間を調整する一因となっていました。今回の変更は、この課題を解決し、被扶養者認定の「予見可能性」を高めるための戦略的措置と言えます。
厚生労働省のQ&A(Q1)によれば、新制度の趣旨は以下の2点に集約されます。
新しい判定方法の基本原則は、Q2に示されているとおり、「労働条件通知書等の労働契約の内容が確認できる書類」に基づいて年間収入を算出することです。具体的には、書類に記載された時給、所定労働時間、勤務日数等を用いて算出した年間収入の見込額が、基準額(原則130万円)未満である場合に、被扶養者として認定対象となります。
算定の基礎となる「賃金」には、基本給だけでなく、労働契約書や賃金規程等で支給額や算定方法が定められた諸手当や賞与も含まれます。
実務上最も重要な点は、労働契約に明確な規定がなく、契約段階では金額を見込み難い時間外労働に対する賃金等(残業代など)は、原則として年間収入の算定から除外されることです。これにより、経常的に時間外労働が発生している場合であっても、それが契約書に明記されていなければ、残業代は「一時的な収入変動」とみなされ、見込額には算入されません。
ただし、このルールには注意すべき点があります。認定後に実際の収入が契約内容と著しく乖離し、「不当に低く記載されていた」と判断された場合、認定が遡って取り消される可能性があります(Q8)。つまり、契約にない残業代は除外される一方で、契約そのものが実態を反映しない「虚偽」と見なされれば、その効力が否定されかねません。このバランスを顧問先に指導することが、社労士の重要な役割になると思われます。
この新しい判定方法は、すべての被扶養者認定に適用されるわけではありません。その適用は、「検証可能な労働契約が、将来の収入を判断する唯一の根拠である場合」に限定されます。それ以外のシナリオ、例えば収入源が複数ある場合や契約書がない場合は、従来どおり実績等を確認する方法に回帰します。 具体的には、Q5とQ6に基づき、適用対象は「給与収入のみである」認定対象者に限定されます。以下の表のとおり、従来どおりの判定方法が維持されるケースと明確に区別する必要があります。
| ケース | 年間収入の判定方法 | 根拠 |
|---|---|---|
| 給与収入のみの場合 | 労働契約内容に基づく判定(新制度) | 客観的な単一文書(労働契約)に基づき予見可能性を最大化するため |
| 給与収入以外に収入がある場合(年金、事業収入等) | 収入証明書や課税証明書等による判定(従来どおり) | 収入源が複数で契約書のみでは判断できないため、過去・現在の実績確認が必要となるため |
また、Q3で示されているように、「労働契約内容が確認できる書類がない場合」も、新制度の対象外となり、従来どおり収入証明書等による判定となります。 これらのルールを踏まえると、我々の実務は、まず従業員がどのケースに該当するのかを正確にヒアリングし、適切な手続きを案内することから始まります。次のセクションでは、この新しいルールを踏まえた実務上の留意点を解説します。
この新しい取扱いは、令和8年4月1日以降に適用が開始されます。
Q9によると、新旧どちらの制度で判定されるかは、申請日ではなく「認定日」が基準となります。つまり、認定日が令和8年4月1日以降となる申請について、新制度が適用されます。
したがって、例えば令和8年4月に申請を行ったとしても、扶養の事実発生日が同年3月以前であり、認定日を遡って適用するようなケースでは、従来の取扱いによって判定されることになりますので、注意が必要です。
本稿で解説したとおり、令和8年4月から施行される被扶養者認定の新基準は、判定の根拠を「実績」から「契約」へと移行させる大きな転換点です。
社会保険労務士の皆様におかれましては、この制度変更が顧問先企業およびその従業員に与える影響を正確に伝え、円滑な移行を支援してください。また、年間収入の判定根拠が労働契約の内容そのものとなり、労働条件通知書は法的判断が下される第一級の証拠書類としての意味合いを帯びます。所定労働時間、賃金、諸手当、賞与等の記載が実態と乖離していないか、顧問先にあらためて確認・整備を促しましょう。